たとえば、神社やお寺が好きで御朱印集めを始めた。

その果てに何を見るか・・・
親ブログでも書いたこのテーマ、好きで御朱印集めを始めてその果てに何を見て何を感じるか?

たぶん他の人も『好き』とか『興味』で御朱印集めを始めたと思います。

でも、それを続けていくと色々と考えることがあると思います。

いくら日本が無宗教な国であるとも、御朱印は神道と仏教の宗教である。

最初はそう思っていなくても、いずれ『宗教のしがらみ』にとらわれたりする。

最初は一緒にしてた御朱印帳も今は神社とお寺を分けるとか、

神社では祝詞、お寺では般若心経とか、

まぁ、そのくらいのしがらみはあったほうがいいともいます。

ではその先に何を見るか?

たぶん最初に戻る。

『好きだから』という言葉だけで終わる。他に理屈はいらない。

祝詞やお経を知っていても唱えなくなる。

一般人であるならば、祝詞やお経ではなくもっと簡単な言葉で神社もお寺も済ませられる。

ただ『ありがとう』と。

神社やお寺巡りをしまっくって、お願い事をしますか?

それよりかは、お参りできたことに感謝しだすと思います。

だから、『ありがとう』という言葉だけでいいと思うんです。

『好きだから』お参りして、『ありがとう』の気持ちでいられる。

そこには、宗教のしがらみはないし、自分も幸せでいられる。

まぁ、形式的に祝詞やお経を覚えてみよう。

お寺の御朱印は本来は写経をする建前がありますからね。

祝詞やお経は『ありがたいもの』といいますが、何がありがたいのか?

書いてある言葉がありがたいのか?

だとしたら言葉の意味を知らなければいけない。

普通の人はそこまで掘り下げない。

だから形式でいい。

普通の人からすれば、言葉の意味より自分で唱えた、自分で写経したからこそ『ありがたいもの』だと思う。

形式を知らなければ形無し、形式を知れば形にはまる。

それを超えて・・・